後悔と言う名の元に…<つかつく> 1.
<一部、言葉に、不快感に思われる方がいらっしゃるかも知れません。
そのような方がお出ででしたら、先ずは、お詫び申し上げます。>
<つくしside>
私は牧野つくし 35歳 独身 一応、ドクターをしている。
私が高校2年の時、道明寺が私だけの記憶を失くし、道明寺の母親によって、道明寺はNYに連れて行かれた。
私は、その事に寄り、高校2年で英徳高校を自主退学して大検を取得し、1年遅れで、その年のセンター試験を受験して、奨学金を得て、関西最難関の国立大学 医学部に入学した。
道明寺の居ない英徳高校に居る事が辛かった。
あの時、道明寺を助ける事は出来ても、正直、私だけの記憶を失くすなんて…⤵。
信じられなかった。
だから、私の将来の夢は静さんの夢の様に、国際弁護士に成る事だったんだけど、私は、脳科学を追求する為、脳外科医に成り、研究員として、研究にも携わっている。
実は、私は、道明寺と共に、滋さんによって拉致られたあの船の中で、道明寺と一線を越えてしまった。
その事により、私は妊娠してしまった。
どうしても、私は、赤ちゃんを手放す事が出来ずに居た。
私の両親が父親のリストラに寄り、親戚を頼って、地方に移住して居た事も有り、私も英徳高校を自主退学して、関西に移住し、出産して、両親と進のお陰で何とか大学を卒業し、ドクターに成れた。
子供は、男女の二卵性双子だった。
長男を『翼』と懐け、長女を『蘭』と懐けた。
翼は道明寺のDNAを色濃く受け継ぎ、性格まで似ていた。
蘭は、容姿だけではなく、私に性格までそっくりだった。
その頃、私の身体には病魔がじわり・じわりと押し寄せていた事を私は知らずにいた。
妊娠した事に寄り、症状が出ていても可笑しく無かったらしいが、日々の子育てと日々の生活に追われて、気付かずに生活出来ていたらしい。
それが、今年になって、病魔が暴れ出したのである。
患者の治療中に私は倒れてしまった。
直ちに、検査され、“当分の間、治療に専念する事。”と、先輩女医に言われてしまった。
検査入院と言う名の入院をしてから、2週間が経っていた。
未だに、退院の目途は経っていない。
子供達にも心配を掛けているよね…⤵。
もう、高校2年生だし、蘭が居てくれてるから大丈夫だと思うんだけど…⤵。
何か、心配なんだよね⤵。
<司side>
俺は、記憶を失って、NYに渡米してから、早18年が経った。
18年振りに、日本に帰国した。
帰国した俺は、日本支社 支社長に就任した。
NYに居た頃の俺は、何の記憶を失ったか分からねぇが、兎に角、俺は記憶の一部を失っているらしい事は理解していた。
そして、俺はNYに居る間、『無機質・無感情・無気力』感に苛まれていた。
何をするのも、言われるがまま…。
唯、生きているだけの状態だった。
生きた屍の様だった。
西田が言うには、その頃の俺を見るのが、辛かったらしい。
NYに渡米した際、俺はババアに条件を出した。
「俺は、女は要らねぇ。
政略結婚もしねぇ。
もし、させると言うなら、俺は、道明寺HDを潰して、ババア共々、この世から葬り去
って遣る。」
この言葉に、ババアは何も言えずに居た様だった。
それから、18年…。
幼馴染のあいつ等とも、疎遠になり、日本に帰国しても何も無い。
『無機質感は変わらねぇ』と、そう思っていた。
そう、あいつ等に会うまでは…。