総二郎 と 優紀の初めてのゆく年くる年【あきら&つくし兄妹】…<総優> 番外編
<(*)此の二次小説『総二郎 と 優紀の初めてのゆく年くる年【あきら&つくし兄
妹】…<総優> 番外編』の中に出て来る『初釜式』の日取りを、私共の二次小説の
<総優>の中では、此れ迄、『1月7日』と、致して折りますが、茶道では、毎年、通常、
1月10日前後に執り行われるそうです。
偶々、私が、以前、知り合いから聞いた日取りが、『1月7日』…だったので、私共の二次
小説の<総優>の中では、以前から、『1月7日』を『初釜式』の日と想定致して折りまし
た。
ですので、今回の此の二次小説『総二郎 と 優紀の初めてのゆく年くる年【あきら&つ
くし兄妹】…<総優> 番外編』の中でも、『初釜式』の日取りを『1月7日』と、致し
ました。
関係者各位 様に於かれましては、不手際が御座いました成らば、お詫び申し上げます。
了承の程、宜しくお願い致します。>
【『総二郎の結婚式【あきら&つくし兄妹】…<総優> 番外編』と、同じ年の大晦日で
在る 12月31日~翌年の元旦で在る 1月1日の『ゆく年くる年』の<総優>のお話し】
言うまでも無く、茶道 西門流に限らず、茶道の流派では、毎年 1月10日前後(*)に『初釜式』が執り行われて居るのだ。
其の『初釜式』と言うのは、茶道では一年で最も早い年中行事なのだ。
実は、茶道 西門流にとっての『初釜式』とは、『五節句』の一つで在る 1月7日の『人日(じんじつ)』の式日に合わせて、『1月7日』に執り行われて来たのだ。
しかも、茶道 西門流は、代々、一年の始まりで在り、新年の始まりのお祝いのお茶会の場に相応しいという事から、『五節句』の一つで在る 1月7日の『人日(じんじつ)』の式日を『初釜式』の日として来たのだった。
何故なら…。
『1月7日』とは、人日(じんじつ)の式日で在り、茶道の年中行事の中で重んじられて来た『五節句』の中の5つの節句の内の一つの式日で在ったからなのだ。
因みに、江戸時代から幕府に寄って定められて来た式日というのは、茶道の年中行事の中でも重んじられて来た『五節句』の事…だったのだ。
実は、其の『五節句』の中には、1月7日の他にも、3月3日の上巳(じょうし)・5月5日の端午・7月7日の七夕・9月9日の重陽(ちょうよう)が在るのだ。
しかも、毎年 茶道 西門流が1月7日に執り行って来た『初釜式』は、茶道 西門流 家元が主体と成って執り行われるお茶事の場で在ったのだ。
だが、だからと言って、茶道 西門流 次期家元で在る 総二郎と結婚した事で、総二郎の妻と成った 優紀が、何もし無くても良いという訳にはいかず、やはり、茶道 西門流 次期家元夫人としての役割も、勿論、熟さなくてはいけないのだ。
そして、優紀のお役目は、其れだけでは無かったのだ。
実は、華道 花咲流 次期家元で在る 優紀にとって、毎年、1月5日に執り行われる 『初生け式』でも、華道 花咲流 次期家元としてのお役目を熟さなくてはいけなかったのだ。
云わば…。
華道 花咲流にとっても、一年の中で、最も、重要な儀式の一つが1月5日に執り行われる 『初生け式』という訳…だったのだ。
と言う事は、優紀としては、茶道 西門流 次期家元夫人としての役割だけでは無く、華道 花咲流 次期家元としてのお役目も果たさなくてはいけないという訳…だったのだ。
だからだったのだ。
12月3日の総二郎のBirthdayの日に、自身達の結婚式を済ませた筈の総二郎 と 優紀は、新婚旅行に行く事無く、また、ゆっくりする暇も無く、毎年 1月7日に執り行われる 茶道 西門流の『初釜式』に向けて、準備し始めて居たのだった。
そして、優紀は、其れに加えて、毎年 1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』に向けても、準備をする必要が在ったのだ。
云わば…。
結婚式を終えたばかりの優紀にとって、「時間が幾ら在っても足りない。」と、言いたく成る様な年末を過ごして居たのだった。
勿論、総二郎は、自身と結婚した事で、自身の妻と成った 優紀のサポートを怠る事無く努めて来たつもり…だったのだが、其れでも、優紀自身は時間が足りなかったのだ。
実は、優紀は、毎年 1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』は、自身の祖母で在る 華道 花咲流 家元と共に、此れ迄にも熟して来たのだ。
だからこそ…。
此の頃の優紀にとって、毎年 1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』は、優紀自身、分かり切った流れで進められるのだ。
だが、優紀は、此れ迄にも、毎年 1月7日に執り行われる 茶道 西門流の『初釜式』には出席して居たのだが、迎える側としては初めての事なので、流れを覚えるだけでも大変で、一杯一杯に成る程…だったのだ。
勿論、優紀にとっては、『初めて』の事だらけで必死だったし、精一杯では在ったのだが、其れでも、1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』にしても、1月7日に執り行われる 茶道 西門流の『初釜式』にしても、“何方も、何事も無く、無事に遣り遂げたい‼”と、言う思いが有り、必死…だったのだ。
云わば…。
1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』にしても、1月7日に執り行われる 茶道 西門流の『初釜式』にしても、“何方も粗相無く遣り遂げたい‼”と、更に、頑なな迄に、そう思い込んで居る節の在る 優紀にとって、自身の夫で在る 総二郎が、例え、自分自身の為に何を言って来たとしても、聞く耳を持って居ない様子…だったのだ。
其れ位、此の時の優紀は、必死…だったのだ。
だからだったのかも知れない。
此の時の優紀にとっては、悠長な気分で、其の年の大晦日で在る 12月31日~翌年の元旦で在る 1月1日の『ゆく年くる年』を、じっくり、味わって居る時間等無かったという訳…だったのだ。
云わば…。
1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』 と 1月7日に執り行われる 茶道 西門流の『初釜式』に向けて、気だけが急いて居た優紀…だったのだ。
しかも、1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』が、例え、滞り無く済ませたとしても、1月7日に執り行われる 茶道 西門流の『初釜式』に粗相したのでは、元も子も無かったのだ。
だからだったのだ。
優紀自身、無事に、1月5日に執り行われる 華道 花咲流の『初生け式』が滞り無く済ませたとしても、1月7日に執り行われる 茶道 西門流の『初釜式』も滞り無く済ます事が出来る迄、気が抜けない優紀…だったのだ。
だからだったのだろう。
総二郎としては、夫婦と成って初めて迎える優紀との『ゆく年くる年』…だったので、言いたい事は山の様に有ったのだが、傍で優紀のそんな頑なな迄の態度を観て居たら、何も言えずに居たのだった。
何故なら…。
優紀が必死な思いで、華道 花咲流の次期家元としてのお役目だけでは無く、茶道 西門流の次期家元夫人としての役割迄も熟そうとしてくれて居る事自体を理解して居る総二郎だったので、其れ以上、優紀には何も言えずに居たのだった。
唯、此の時の総二郎は、其れでも、自身の心の中で優紀の事を心配するかの様に考えて居たのだった。
“(1月5日に執り行われる 華道 花咲流の)『初生け式』にしても、(1月7日に執り行わ
れる 茶道 西門流の)『初釜式』にしても、今回だけで終わる訳では無い。
此れからの優紀の前には、此の時期に成ると、必ず、毎年の様に、其れ等が執り行われる
訳だ。
だからこそ、其の内、嫌でも、優紀自身、慣れて来るだろう。
優紀に余裕が出て来る迄、俺は、優紀を待ってて遣ろう。”と、考え乍ら…。
実は、総二郎は、結婚式を終えてからというモノ…。
そんな自身の妻で在る 優紀の事が心配で、優紀に、「大丈夫か?」とか、「無理するんじゃねぇぞ‼」とかを言い続けて居たのだ。
だが、優紀は、自身の夫で在る 総二郎が心配してくれて居る事が分かって居乍らも、素直な気持ちのまま、自身の夫で在る 総二郎に返答出来ずに居たのだった。
「大丈夫ですから…。」と、素っ気無く…。
だからだったのかも知れない。
此の時の総二郎は、密かに、そんな風に思いつつ、自身の妻で在る 優紀の事を心配し乍らも、優紀の様子を注視する事にしたのだった。
勿論、其れは、総二郎だけでは無かったのだ。
実は、優紀のそんな様子を、傍で見て居た総二郎の母親で在る 西門流 家元夫人も、また、そんな優紀の事を心配して居た一人…だったのだ。
だが、総二郎の母親で在る 西門流 家元夫人が、幾ら、優紀に心配する様な言葉を伝えたとしても、優紀から返って来る返答の言葉は、唯、一つ…だったのだ。
「心配して下さり、有難う御座います。
でも、私は、至って、健康ですし、大丈夫です。
私は、遣り熟して魅せます。」と…。
だからだったのだ。
優紀から、そんな風に返答の言葉を述べられてしまった総二郎の母親で在る 西門流 家元夫人は、其れでも、優紀の事を心配し乍らも、其れ以上、言えずに居たのだった。
実は、此の時の総二郎の母親で在る 西門流 家元夫人は、優紀の事を思い乍らも、優紀にエールを送って居たのだった。
“頑張り過ぎた優紀さんの身に、何も起きなければ良いんだけど…。
優紀さんを助け乍らも、私が優紀さんの様子を見て差し上げましょう!”と…。
だが、優紀の祖母で在る 華道 花咲流 家元は、そんな頑張り屋の優紀に対して、思って居た事が有ったのだ。
“もしも、優紀が此れ位の事で挫ける(くじける)様なら、華道 花咲流 次期家元として
も、茶道 西門流 次期家元夫人としても、何の役にも立たないでしょうね。
優紀には芯のしっかりした処が在るわ。
此れからの華道 花咲流 と 茶道 西門流の繁栄の為にも、優紀に頑張って貰わなけれ
ば…。”と…。
だからだったのかも知れない。
そんな風に思って居た優紀の祖母で在る 華道 花咲流 家元は、自身の孫娘で在る 優紀の性格を理解して居たからこそ、性根を据えて、清水の舞台から飛び降りるつもりで、此の試練を乗り越えて欲しかったのだ。
「今の貴女なら遣り遂げられるわよ。」と、優紀に発破を掛け乍らも…。
だからだったのだろう。
自身の祖母で在る 華道 花咲流 家元から、初めて、そんな風に声を掛けられた優紀は、普段、言われた事の無い言葉…だっただけに、実は、優紀自身、何が何でも遣り切るつもりで居たのだった。
だからこそ…。
そんな優紀を間近で見て居た総二郎は、更に、心配に成る程…だったのだ。
だが、総二郎のそんな心配を余所に、優紀の頑張りは報われた様で、1月5日に執り行われた 華道 花咲流の『初生け式』も、1月7日に執り行われた 茶道 西門流の『初釜式』も、優紀自身、無事、熟す事が出来て居たのだった。
だからだったのだろう。
そんな優紀の頑張りを傍で観て居た総二郎にしても、(茶道 西門流の次期家元夫人としての優紀の頑張りを傍で観て居た)総二郎の母親で在る 西門流 家元夫人にしても、“優紀なら遣り通せる。”と、確信を持って思って居た優紀の祖母で在る 華道 花咲流 家元にしても、ホッとして居た事は言うまでも無かったのだった。
だからだったのだ。
1月7日に執り行われた 茶道 西門流の『初釜式』を終える迄の優紀は、結婚式が控えて居た事も有り、また、12月前からも、色々な準備期間で在った事も有り、自身の夫と成った 総二郎との結婚後の年末から年始に掛けても、気の休まる日が無かったのだ。
云わば…。
自身の夫で在る 総二郎との結婚式を終えた後の優紀にとっての『ゆく年くる年』は、大変な日々の幕開けに過ぎ無かったのだ。
だが、此の機会を切っ掛けに、優紀は、華道 花咲流 次期家元としても、茶道 西門流 次期家元夫人としても自覚が出て来たのだった。
だからだったのだ。
此の時の優紀は、其れだけじゃ無く、密かに、思う様に成って居たのだった。
“人間には無限大の力が備わって居るのかも知れないなぁ~。
私にも遣って遣れない事は無いのかも知れない。
高校生の頃の私は、逃げる事ばかり考えて居たけど…。
もしかしたら、私は、『誰もが無理だろう。』と、思って居た事を遣り遂げる事が出来た
のかも知れない。
此れを切っ掛けに、此れからも、私は頑張れそうだよ!”と…。
云わば…。
今回、無事に遣り遂げる事が出来たお陰で、自信が身に付いた様子の優紀…だったのだ。
だからだったのだろう。
何時(いつ)の間にか?
華道 花咲流 次期家元としても、茶道 西門流 次期家元夫人としても自覚 と 自信が出て来た優紀を観て居た総二郎は、そんな優紀を頼もしく思うのだった。
“やっぱ、優紀は、見た目と全く違う。
芯がしっかりして居て、良い意味での頑固さが在る。
でも、身体は資本だ。
倒れない程度に、無理をせず、遣って行ってくれたら…。
其れでも、優紀は、此れからも、此のスタンスで遣って行くんだろうな。
そんな優紀が危なっかしくて見てらねぇけど…よ。
だからこそ、俺は、そんな優紀をサポートして遣るのみだな。”と…。
そして、其の後の総二郎 と 優紀は、漸く、遅れ馳せ乍らも、夫婦に成って初めての『ゆく年くる年』を迎える事が出来たのだった。
云わば…。
其の後の総二郎 と 優紀は、1月7日に執り行われた 茶道 西門流の『初釜式』の次の日で在る 1月8日に、漸く、遅れ馳せ乍らも、夫婦に成って初めての『ゆく年くる年』を迎える事が出来た様な気持ちで居たのだった。
だが、花咲家 と 西門家にとってのそんな慌ただしい『ゆく年くる年』は、今年で終わった訳では無いのだ。
云わば…。
花咲家 と 西門家にとってのそんな慌ただしい『ゆく年くる年』は、毎年、こんな感じで訪れる事に成るのだ。
だからだったのだろう。
総二郎 と 優紀が結婚した同じ年~翌年に掛けての西門家で、初めての『ゆく年くる年』を迎えて居た優紀は、“毎年、こういう感じに成るんだろうなぁ~。”と、物思いに耽って居たのだった。
fin